古典に書かれている
如環無端、如環之無端から取っています。
意味は環(たまき)の端無きが如し。
それをここでは、わざと?無端如環と書いて
います。
正直に言うと、如環無端の中に潜む気だけが記憶にあり、題名にするときに本末が転倒しましたw
如環無端の意味合いとしては、
を参照。
書き始めた時の意識と気持ちと自分の解釈を込めて、敢えて訂正せずに「無端如環」と題しています。
前後が入れ替わるだけで、意味合いが変わります。
自分でもなぜか?分かりませんでしたが、
今朝ふっと降りてきました。
如環無端とすると、環が中心軸になるイメージを持ってしまうのです。
循環と言うのは太極です。一つの端のない太極を示し、人が感性を当てて分析し、理論化する際にはこの観点が大切です。
1、太極を意識する。(着眼点がどこにあるか?中心、枠組、軸、時空を設定してその中で思考し、理論化(一つの形)にする。
2、終始を意識する。(始めを意識する事で無意識、感覚で捉えたきっかけを形作る土台とする)
特にこの2点がなければ無極と太極の区別すらつきません。
しかしながら、私が着眼点としているのは光であり、本当の本質的な気。
3、これを考えると太極を設定しながらその枠外も意識する。
4、太極は十全に整えば必ず次の太極へ変容する。
ここを踏まえると、環よりも無(無極)を全面に押し出したかった、仮定(如)よりも前提(無)を意識したかったのだなと感じました。
「自分の中の無極と太極」
無極は様々な太極を包含していることから、無極は太極とも言えますが、無極は太易(常に大きく変化し)、太初(枠組、軸としての一つの太極の雛形を作り)、太始(太極の実践使用と感性を合致させ)、太素(大きな質的変化を起こし)、太極(窮則変、変則通、通則久を実現した法則性)にも繋がる。
1つの小さな環が螺旋になり、螺旋が大きな環となると感じたからなのだと今は考えています。
この1つの小さな環を3つ揃えると三才となり、自分の中で一旦の八咫鏡、八尺瓊勾玉、天叢雲剣が揃います。これが1つの大きな太極であり、大きさによって観る角度によってまた様々な光、色、形に変容するものだと考えているのです。